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2012年2月

2012年2月29日 (水)

日本注釈学院青春記 共同幻想の巻(その2)

 さてお待ちかねの(?)学問ラノベ『日本注釈学院青春記』「共同幻想の巻(その2)」。

 「共同幻想の巻(その1)」はここです。

    日本注釈学院青春記 共同幻想の巻(その2)

 丹羽とわたしは、備え付けの小型ウェットティッシュで指先をぬぐうと、書見机の向かいにある書物取り出し口にむかった。みどりのランプが点灯すると、「ミュー」という猫の鳴き声のような音がして、書物取り出し口が開口した。
 送書管のなかはソフトメタルで内装されていて、本は傷つくことはないのだが、2冊の『ドイツ・イデオロギー』は、クラシカルないわゆるプチプチシート製の封筒に入っていた。学院内にはこうした送書管がたくさんあり、実際の本を取り寄せることができた。学院の地下には、《書海》と呼ばれる巨大な書庫があり、そこから本が送られてくるのだ。生徒たちに《書海》への出入りは禁じられていたが、《書海》には全視点カメラが備えつけてあり、あらゆる書架を生徒は見ることができた。生徒たちは、目的の書架を眺めながら、必要な本を取り寄せたり、その電子テキストを、自在に取り出すことができた。デジタルデータだけで検索するよりも、映像化されたものではあるが、書架の間を逍遙しているうちに、アイデアが浮かぶこともあるのだった。巨大な《書海》は無人で、教官によると、昔のジュークボックスのような仕組みで本が取り出されてくるという。送られた電子信号に反応した自在アームが、おなじ信号の書物に近づきつまみあげ、送書管まで運び封入するらしい。
 それだけでなく、自分に必要なヴァーチャルな書架を構成することもできた。作業に必要な自分用の特別の書架を作り、自由に参照できたのである。むろん、いましているように、実際の書物を取り寄せることも可能であった。
 丹羽は、封筒から2冊を取り出すと、書見机に置いて、該当頁を調べはじめた。廣松渉編輯版『ドイツ・イデオロギー』原文テキスト編と邦訳テキスト版(いずれも1974年、河出書房新社)を見比べながら、頁をすばやくくっている。
「あ、逆立ちはここだね。「法の理念、国家の理念、通常の意識においては事柄が逆立ちしている」とある。原文は、Idee des Recht. Idee des Staats. Im geöhnlichen Bewußtsein ist die Sache auf den Kopf gestellt.だね。Kopfが逆立ちという意味だ。それから、エンゲルスの書き込みの「幻想の共同性」という部分は、illusorische Germeinschaftlichkeitとなっている。」
 わたしは、書見机のディスプレイを起動して、ドイツ語辞書をひきはじめる。
「illusorisch というのは、現実に対して、幻想、虚偽、欺瞞という意味で使われているね。英語のillusionと同じだ。あくまで、現実的な問題が転倒して虚像の幻想の問題としてあらわれるというように逆立ちという表現は使われている。」
 丹羽は、『共同幻想論』では、現実と幻想という二元的な発想はとっていないのでは、と応じた。共同幻想という概念は、人間の観念世界の構造をとらえようとしている点では、現実対幻想の基軸を導入したマルクス、エンゲルスよりも、宗教を分析したフォイエルバッハに近いと言えるだろう。
 丹羽は、すばやくホログラフボードを立ち上げ、「船山信一訳の岩波文庫版『キリスト教の本質』の上巻(昭和12年第1刷)を呼び出してみよう。」と言った。
 ホログラフボードは、実際の書物を拡大したヴァーチャルな立体的な画像として投影することができた。私たちの背丈の半分ぐらいまでの大きさに拡大された文庫版の頁面が、目にはっきりとらえやすい濃紺の文字で現れた。丹羽は映像にタッチして頁をくっていく。
 丹羽が検索窓に「共同」といれると、「共同」の語彙が使われている部分がピンクのバックライトをあびて美しくかがやいた。
 少し前に、偶然、作業室で瀧島里がいくつものホログラフボードに囲まれながら、バーセイバーを使って資料の収集を行っているところを目撃したことがある。濃紺のジャケットと、フレアのある少し長めのスカートをゆらして、上向き加減で作業している瀧島の姿は、交錯するテキストのコンダクターのようだった。
 昔、ハイパーテキストという概念を提唱したテッド・ネルソンが、ストラクタングルという言葉を使ったことがある。ネルソンは、思考の結果である一冊の書物よりも、その書物が生み出される過程の、さまざまに絡み合った思考の変容する姿(ストラクタングル、すなわちタングルドストラクチャー、乱構造、絡まり構造)こそが重要だと主張したのであった。瀧島の姿は、ストラクタングルの迷宮の中に、秩序の糸をさがしもとめる探究者を暗示しているようでもあったのだ。
 丹羽が、「このあたりかな」とつぶやく。
 続けて丹羽は、「「第十四章――奇跡の秘密」の奇跡の心理学的説明の部分だ。」と言った。
 わたしが、目で追うと、ピンクに点滅している「共同の幻想」という一節を見つけることができた。丹羽が朗読しながら、ペン型のバーセイバーで引用してストレージにキープする。
「「これらの奇跡が全会衆の眼前で実際起こったかまたは起こったはずだということ・正気な人が誰もおらず万人が過度の超自然主義的な表象や感情にみたされていたということ・同一の信仰や同一の希望や同一の空想が万人を活気づけていたこと――これらのことはなんら根拠をもった異論にはならない。しかし共同の夢または同種の夢や、共同の幻想または同種の幻想もまた存在するということを知らない人がいようか? とくに、心情的であり、ただ自分自身のことしか考えず、その上密集している諸個人のもとには、そういう夢や幻想が存在するはずである。けれどもそれはどうでもよい。もし奇跡を心情や空想から説明することが皮相であるならば、そのときは皮相であるということの責任は説明者にあるのではなくて対象そのもの――奇跡――にあるのである。なぜかといえば、奇跡は白日のもとで見ると、まさに全く、矛盾をおかさないで心情のあらゆる願望をみたしてやる空想がもっている魔力以上の何物も表現していないからである。」」
 とても、妙なことだが、わたしは丹羽の朗読を聞いていて、フォイエルバッハとはまったく系譜の異なる日本のある思想家のことを想起せざるをえなかったのだ。
「いや、これは発見だ。マルクス、エンゲルスとは異なる系譜の「共同の幻想」の用例だ。むしろ、『共同幻想論』の記述にちかいものさえあるね。「心情的であり、ただ自分自身のことしか考えず、その上密集している諸個人」か。そうした人々の上に「共同の幻想」が逆立するわけだ。」
 わたしの胸の中には、注釈家たらんとするものがつねに悩まされる問題、本人の証言はどこまで真実なのか、という問いが頭をもたげてきた。
「丹羽君。マルクスに由来していると証言している彼自身は、『キリスト教の本質』に「共同の幻想」という用例があることを知っていたのだろうか?」
「先輩、それはどちらでもいいんじゃないでしょうか。」丹羽は改まった口調でそういうとあとを続けた。
「彼自身が知らなくても、この相似、つまり、奇跡、超常現象が「共同の幻想」にかかわるということは、動かしがたいテキストの連鎖を指し示していることは、はっきりしている。フォイエルバッハが楽観的に素通りしていることを、彼はたちどまって考えようとしているのです。それに、先輩はきっと、『共同幻想論』にも関わるある日本の思想家のことを連想したでしょう。」
 丹羽は、密集してきれいに短く刈られている髪をなでながら、そう言った。丹羽は、ホログラフボードのスイッチを切り、2冊の書物を封入して、書物取り出し口のボタンを操作し、書物を送書管に入れると返却の手続きをした。軽い振動音がすると、書物は《書海》にもどされていった。

 これは小説である。扱われている書物は事実に基づいている。

 かねて、フォイエルバッハの『キリスト教の本質』に「共同の幻想」の使用例があることを指摘しておきたいと考えていた。原文にはあたっていない。

 この「共同幻想の巻」と、「ディベートの巻」は、完成させたいと思っている。次回は、瀧島里もからみ、日本のある思想家についての議論が始まる予定。

 (Kimata Satoshi)
 

2012年2月28日 (火)

渡辺文子のサイン

 《daily-sumus》さんが、「女優マチネー番組表」という記事の後半で紹介している、レート化粧品の広告のまるに文の字のサインは、渡辺文子のものだ。

 及川益夫『大正のカルチャービジネス』(2008年5月、皓星社)に出ている。

 記事「日本美術学院、渡辺文子」。

 

草子ブックガイド①

 どこかの誰かのブログで推薦してあり、病院帰りの書店で見つけた。

 玉川重機『草子ブックガイド①』(2011年9月、講談社モーニングKC)。帯裏。

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 電車内と、美しい夫人がいるカフェで読了。

 草子(そうこ)のヘアスタイルと、古書店、青永遠屋(おとわや)の飼い猫、しおりの凶眼(?)がよい。

 猫のしおりのグッズがあったら購入するかも。

 ブックワーム少女の名作ガイドといってしまうと、おもしろみがつたわらないかもしれない。

 最近多い、名作の再話(リテール)ものの一種であるが、絵が描き込んである。絵の情報の多さにとまどう人もいるかもしれないが、諸星大二郎や花輪和一がよい人には抵抗はないだろう。

 草子をめぐる物語は、人情ものの定番で、少しマンネリズムがあるが、続けていくために、それは不可避でもあるだろう。最低、5巻は読みたいと思った。

 コマ割りは、工夫があって、日本マンガ史のエッセンスの上に成り立っている。

 ヒロインの眉は、ペンで丁寧に描かれている。手描きの懇切さが、心に降り積もるような感触。ストーリーよりも、その感触がたいせつだと感じた。

 「2冊め」(第2話)で、トーマス・マンのものとされる、次のような言葉が紹介されている。

「蔵書は星空を眺める時の感情にも似た感情を呼びおこす事がある」

 

2012年2月27日 (月)

恩地孝四郎の伝記

 三月書房さんからの情報。池内紀の『恩地孝四郎―一つの伝記』(幻戯書房)が4月早々に刊行されるようだ。

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 ずいぶんまえに雑誌『ちくま』に連載していて、そのコピーは所持している。最近は軽めの本が多いので、これはまとまらないのかと思っていた。「15年前の筑摩書房「ちくま」の連載をほぼ捨て去り、著者渾身の評伝いよいよ完成!」ということらしい。

 恩地といえば、竹久夢二への傾倒があり、『白樺』や白秋の影響を受け、回覧雑誌『密室』、創作版画誌『月映』(つくはえ)に参加。1934年の『飛行官能』にはモダニズムが充満している。『月に吠える』ほか、装幀家としての活躍もある。創作版画史上の重要人物でもある。

 白樺、象徴主義、モダニズムと、振幅が大きい人のように見られているが、回覧雑誌『密室』を翻刻した際に、個人を超える共同性(無意識)に表現の根拠を置こうとしている点で、内的表現の理論的根拠を提供した重要人物だと思った。

 桑原規子氏の研究も早く出てほしい。

 これまでで、恩地の全容がつかめるのは、図録『恩地孝四郎 色と形の詩人』(1994年、横浜美術館、宮城県美術館、和歌山県立近代美術館編)である。

2012年2月24日 (金)

本が呼んでいる

 ああ、本が呼んでいる。仕事、山積みで読書もままならぬ。

◇『前衛の遺伝子』「第5章 反シュルレアリスムの美学―『原理日本』に見る前衛芸術弾圧の思想的背景』」で取りあげられている田代二見という人物。個性主義の超克をダダイズムやプロレタリア美術に見出している。足立氏は「日本のファシズムの美学は、あくまで個性主義に基づこうとする日本のシュルレアリスムを批判したことで、結果的には一面でシュルレアリスムの本質に接近していたのでもあったといえる」と書いている(197頁)。

 こうした個と共同性のからみについて、エヴァンゲリオンにちなんで、《人類補完計画問題》と呼んでおこう。なに、わかるひとにはすぐピンとくるでしょう。

◇『日本注釈学院青春記』が面白いと言ってくれた人あり。図書館学関係かなあ。「その2」は近日公開予定。

2012年2月20日 (月)

台湾の大書店

 『書標』2月号の表紙の写真に見入ってしまった。

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 表紙裏の解説(能勢仁)によると、台中の中友百貨店内にある、誠品書店で、10、11階を4層に分けているという。

 わたしが、しばらくこの書店の風景に見入ってしまったのは、日本が失いつつあるかもしれない、輝きと活気が感じられたからである。

2012年2月19日 (日)

日本注釈学院青春記 共同幻想の巻(その1)

 さて、学問ラノベ『日本注釈学院青春記』、「共同幻想の巻」の第1回。全部書いてから、と思っていたが、いつになるかわからないので、とりあえず書いた部分を公開する。

      日本注釈学院青春記 共同幻想の巻(その1)

 西校舎の隅にあるカフェ想古亭には、紫外線カットのガラスをとおして午後の柔らかな日差しがふりそそいでいた。自然光をおぎなうLEDの照明が自動的に明るさを変え、ノートの文字が最も楽に読めるような明るさがつねに保たれていた。
 糖分は自然のものからとるのがよいと考えられていて、菓子類はおかれず、季節の果物やドライフルーツと飲み物を注文することができた。わたしは、神山というコーヒーと、林檎のドライフルーツを受けとると、広いカフェを見渡した。テーブルの下にかがみこんで、靴の紐をなおしていた、思想コースの丹羽修迅がひょっこり顔を出すと、こちらに笑いかけた。丹羽の後ろのテーブルに、近代コースの瀧島里の後ろ姿が見えるだけで、ほかにはだれもいないようだった。瀧島は小柄であるが、遠くから見てもすぐ彼女だと分かる明瞭な輪郭の存在感を示していた。四分六に右頭部から分けられたショートヘアが彼女の小さな顔を包み、軽く頬の内側に湾曲している。なにかノートを整理しているようだったが、その後ろ姿から、わたしは、すぐ最も気に入っている彼女の眉のかたちを連想した。優美に伸びる眉のラインは、はじまってすぐ微妙に渦を巻くような絶妙の曲線を描いていたのであった。はじめてその眉毛の小さな渦に気がついたとき、世の中には注釈の必要がまったくないものがあるのだと深く感じ入ったのであった。
 丹羽が笑みを浮かべながら手招きしたので、その向かいにカップと皿を置いて席についた。
「なにかいいことがあったのか。」
「注釈特講の課題テーマをもらったんだ。共同幻想のインターテクスト的分析という課題だ。」
 特講の課題は、受講者ひとりひとりにそれぞれ別のものが与えられた。担当教官の鈴掛一炊のとがったあごのイメージが思い浮かんだが、わたしは、それはまた大時代的な課題が出たものだ、と応じた。
 丹羽の前には、煎茶と切り分けたリンゴがのった皿と、2冊の文庫本が置かれていた。一冊は、角川文庫版の『改訂新版共同幻想論』であり、もう一冊は、廣松渉訳の岩波文庫版のマルクス、エンゲルスの『新編輯版ドイツ・イデオロギー』であることがすぐわかった。
「本人が、文庫版のための序文にマルクスから国家が幻想の共同体であることを知ったと書いているよね。」
「ああ、それは明白なんだ。」
 わたしと丹羽は、瀧島里がこの会話を聞いていてくれることをどこかで期待していた。
 丹羽は、角川文庫を手にとると、序の一節を朗読しはじめた。
「「人間はしばしば自分の存在を圧殺するために、圧殺されることをしりながら、どうすることもできない必然にうながされてさまざまな負担をつくりだすことができる存在である。共同幻想もまたこの種の負担の一つである。だから人間にとって共同幻想は個体の幻想と逆立する構造をもっている。」」
「「逆立」というのが独特だったな。」
「個別の利害が普遍的な利害のように現れてくるという記述が『ドイツ・イデオロギー』にあるんだ。分業によって個人の利害、家族的利害と諸個人全員の共同利害の矛盾が顕在化するとマルクスが書いていて、エンゲルスが書き加えた部分がある。「まさしく、特殊的利害と共同的利害とのこの矛盾から、共同的利害は国家として〈形成される〉」というんだ。」
 わたしは、繰り返し読んだ『ドイデ』(何という陳腐な略称だろう)を思い浮かべながら、丹羽のいう一節が、分業を止揚した共産主義の理想を語った「朝は狩をし、午後は漁をし、夕方には家畜を追い、そして食後には批判をする――猟師、漁夫、牧人、批判家となることなく、私のすきなようにそうすることができる」という部分の近くにあったことに気づいたのであった。
「つまり、逆立の典拠としては、個別利害が共同利害に転倒されるときに国家が出現するということがあげられるというわけか。」
「ただし、エンゲルスは、「実在的な土台の上でのこと」とことわっている。すぐそのあとで、「国家の内部における一切の闘争は(中略)幻想的な諸形態に過ぎない」という部分への補筆部分があって、「同時に幻想的な共同性として」とあるんだ。さらに、きわめつけの「そもそも、普遍的なものというのは共同的なものの幻想的形態なのだ」という書込がある。」
 丹羽は、熱心にまっすぐわたしの目を見て語り続けた。
「つまり、普遍的なものは幻想的な共同性として現れるというのは、フォイエルバッハのキリスト教分析をそのまま、近代国家の成立に引き寄せてあてはめていると考えられるわけだ。」
「なかなかいいところをついてくるね。共同性としての人間存在というのは、フォイエルバッハの『キリスト教の本質』で明確に主張されているんだ。」
「ドイツ語版をみてみたいね。」
「廣松が校訂した河出書房版をとりよせてみよう。」
 丹羽が、テーブルに手をかざすと、埋め込まれたディスプレイが起動した。
「実物でも、オンラインでも見られるが、どうします?」
「そうだな、実物が見たいね。」
 丹羽がなれた指さばきで情報を入れる。
 学院上層部では、かつて、食学接近派と食学分離派がはげしくあらそったという。あらゆるところで学ぶためには、食堂やカフェも例外にしてはならない、というのが食学接近派の主張であった。かたや、食学分離派は、貴重な文献がスープで汚されることは耐えられない屈辱だと応じた。激しい応酬の結果、食堂、カフェでも勉学を認めるが、書物は書見机で見るという妥協がはかられたのであった。
 「もうとどきますね。」と丹羽がいい、わたしたちは、カフェの隅にあるダストシュートのような書物取り出し口に向かった。取り出し口の上には、青銅のプレートがはまっていて、校訓である「いかなるときにも、あらゆるところでまなべ」という文字が刻まれていた。

 これは、小説である。ただし、引用される文献は事実に基づいている。

2012年2月18日 (土)

細雪 下巻

 『細雪』3巻本は、家にたった一つしかないガラス扉つき書架に収められていた。

 そのころミナミにあった天牛書店に売ってしまった。いくらだったかおぼえていない。

 ゆえあって、古書で買い求めた。そんなに高くない。

 上巻は、くずれそうなので、刊行年の新しい下巻(昭和23年12月、中央公論社)を紹介しよう。

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 上から、箱、表紙、扉、最終頁と奥付。

 装幀は、菅楯彦。

 もう誰かが言っていることだと思うが、下巻の妙子の運命には、戦後日本に対する悪意がこめられている。

 雪子をおそった〈下痢〉は、まだつづいている。





熊出没注意

 まだ、本は書店で見てもいないのだが、幻戯書房のブログに、南木佳士の自選短編集の広告が出ていて、表紙が藤森静雄であることに気がついた。

 藤森は、創作版画と詩歌の雑誌『月映(つくはえ)』の同人。色彩が美しい。

2012年2月17日 (金)

『風俗壊乱』反響(その19)

 『日本文学』2月号に金子明雄氏の『風俗壊乱 明治国家と文芸の検閲』書評が掲載された。

 「個人の表現の自由に対する国家の干渉を批判的に位置づける著者の思想的立場は明快である」としたあと、金子氏は次のように記している。

 しかしながら、そのような立場の鮮明さに随伴しがちな構図の単純さからきわめて適切な距離がとられている点に本書の大きな特色がある。本書の主題は、検閲制度によって前景化する国家対文学者という対立の構図に内在するさまざまなレベルでの複雑さにあるとしても過言ではない。法制や政治過程の歴史的把握を前提にして、文芸検閲の実態を系統的に明らかにした点は本書の大きな功績の一つである。検閲制度の脅威が直接的には法的処罰それ自体にあることはもちろんだが、それがもたらす出版社側への経済的な打撃に脅威の内実を見る観点は、事前検閲や伏せ字というかたちをとった自己検閲など、検閲する側と出版社側との駆け引きの展開される場所を複数化し、場合によっては相互協力とも呼びうるその駆け引きの様態を多元化する。結果として、文芸作品の出版という事業に関わるさまざまな地点でさまざまな力の鬩ぎ合いが生じている事態が具体的に明らかになるのである。また、桂内閣の文部大臣で、一九一一(明治四四)年の「文芸委員会」設置に関与した小松原英太郎や、「都会」(生田葵山)の裁判を主導し、「大逆事件」の捜査主任となった検事小山松吉など、検閲制度を生み出し、それを運用した側への丁寧な目配りも本書の特質といえよう。

 当時は季刊であった岩波の『文学』に、出歯亀事件と自然主義のリンクに注目した論文を金子氏が発表した頃、翻訳は順調に進んでいて、1996年頃には刊行できるはずだった。

 予期しないさまざまの出来事で、2011年まで、翻訳の刊行は遅れてしまった。障害となった出来事は、すべて訳者たちの個人的事情をこえたものであった。翻訳刊行のお祝いの席で、ルービン先生は、刊行にいたるまでの苦労話をぜひ書いてくださいと言われた。翻訳が出たあとでは、それらは、些事となったと思っているので、胸に秘めておくことにする。

 ただ、ひとつだけ書いておこう。2010年の2月から3月にかけて、全引用文献を照合する作業を続けていた。なんでそんなことをしていたのかというと、事情があって、新たに版を組む必要があり、それまでの校正を参照できなくなったからである。業務の合間をぬって、もれている文献を収集しながら、刊行されることを祈るような気持で、作業を進めていた。いま思えば、集中することができた貴重な時間であった。その際、有能なアシスタントをつとめてくれた人にあらためて感謝しておきたい。

2012年2月13日 (月)

煙突文学全集016

 隆文館の小品叢書は、小品の定着と普及に寄与した。第7巻は、白柳秀湖の『秀湖小品』(明治42年12月)。

 秀湖の小品には、とてもよいものがある。この『秀湖小品』には、詩的小品はあまりなく、随筆、評論が中心である。「渋谷の煤煙」(初出未詳)は、渋谷の発電所の煤煙を描いている。

詩の都は煤煙の都なり、君曾て高きに登り、重き水蒸気に圧されて、低く満都を包み行く、恐ろしき煤煙の勢威にうたれたることありや。されど此煤煙の都にも、猶渋谷発電所に於て見るが如く毒々しきは稀なり。

 雑誌『簡易生活』を創刊した友人(上司小剣)がこの発電所のそばに転居したので、よく訪ねて議論した。煤煙には特に感慨がある。

2012年2月12日 (日)

不思議なアパート

 物語風の夢を見ることがある。眠りの浅いときに多い。

 打ち上げられて尾びれをびちびち打っているサカナみたいだ、と時々思う。

 最近のものから一つ紹介しよう。名付けて《不思議なアパート》。

     不思議なアパート

 4階建ての不思議な作りのアパートに越すことになった。大家との交渉も終わって小さな鍵をにぎりしめて、周辺の環境を確認しようとしている。巨大船舶型の丘の上にアパートが建っている。コンクリートかと思うと部屋は木造の感じでもある。エレベーターが付いている。
 丘の両脇には大通りが通っていて、バスの停留所がある。近くのモールとすこし離れた大きなモールに行こうとしている。
 アパートの通路はせまく迷路のようだ。ちょっとした凹みの裏をみると、そこにドアが並んでいる。
 いつのまにか、手にゴミ袋を持っている。ちょうど、ゴミ収集車が来ているので、出していいかなと聞くと、だめだという。収集日は何曜日ですかと聞くと、その都度告知するという。割り切れない思いで進むと、通路の途中がふくらんでいて、レストランみたいになっている。ちょうど大家(ラピュタの空賊のおばあさんに似ている)がいて、なんでも聞いてくださいなという。ゴミを出すのはどうするのか聞くと、通知があるという。そばにいて食事をしている青年が、ぼくはプラモデルを作っていてゴミがたくさん出るのでたいへんです、という。
 要領を得ないので、進んでいくと、鉄製の網の上にツインテールの女の子が倒れている。頬が赤いので死んではいないと思う。困ったなと思っているうちに、鉄製の網の板の隙間から、鍵をおとしてしまう。なんとか隙間から見ると、鍵が複数落ちている。女の子の鍵もまじっているようだ。
 手を差し入れて鍵を拾う。すると、女の子がぱっちり目を開いて、アラ、ごめんなさい、時々こうなるのといって、たちあがる。まずい(彼女の鍵をもっていて、どれが自分の鍵かわからなくなっている)と思ったが、彼女は去ってゆく。
 やれやれ、どうしようか、彼女は自分の部屋に入れないかもしれない、と思い、とりあえず自分の部屋にもどることにする。
 どうしたことか、なかなか部屋にもどれない。男がやってきて、あとをつけてくる。直観的に女の子の兄だと思う。背中から話しかけてきて、「精神科医をしています」という。自分の部屋とは逆さまの方向の丘のお尻の部分に出てしまう。木が茂っている。部屋に行きつけなかったら、男が怪しむかなと、ちらりと思う。
 思い直して部屋に向かう。小さな凹みを記憶をたどっていくつか曲がりながら、ようやく自分の部屋らしいドアの前にたどりつく。
 ポケットをさぐりながら、どの鍵にしようかと焦る。ドアはしめったベニヤ板みたいに波打っている。一つの鍵を決めて、鍵穴にさしこむとドアの錠がはずれた。
 ドアを開けると、見知らぬ女がいてギャッと叫ぶ。

 佐々木マキのマンガみたいですね。

 目的地に行けないというのは定番なので、そのバリエーションだと思うが、見た本人も内容に責任が持てません。

評釈の楽しみ

 昨日は、連勤の疲れか、午前中は寝床から出られなかった。

 気分を変えるため、河野有時『石川啄木 コレクション日本歌人選035』(2012年2月、笠間書院)を読んだ。

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 啄木短歌には多くの評釈、鑑賞があるが、この本には新しい感触がある。ひとことでいうと、表現の関連性(インターテクスチュアリティ)への配慮があって、評釈に奥行きが出ている。

 たとえば、

東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる

 という著名な『一握の砂』の巻頭歌については、ハイネの「うるほへる砂の上に、ほとれる頰をこそおしあつれ」という詩の一節をくちずさんで、同じようなふるまいをしたという高山樗牛や、岩野泡鳴の「『恋』と真砂に指もて書けば」という詩の一節が参照されている。砂浜の詩情に発想類型の系譜があることがわかるようになっている。さらに、この一首は「「われ」を歌う「われ」」という表現構造を内蔵していることが指摘され、それが異化効果をあげていることが了解できるのである。

 もう一首。

友がみなわれよりえらく見ゆる日よ
花を買ひ来て
妻としたしむ

 この歌の評釈の中には、森鷗外『青年』の「現在は過去と未来との間に画した一線である。此の線の上に生活がなくては、生活はどこにもないのである。」という一節が引かれている。立身出世を夢見てシステムから刷り込まれた生き方を追求しても、ほんとうの生活はないのである。
 『青年』の一節と対比すると、啄木の歌には「生活」の手触りが感じられるというわけだ。
 

 わたしは、ここを読んで、「ハングリーであれ、おろかであれ」という言葉で知られているジョブズのスタンフォード大学でのスピーチを思い出した。
 ジョブズは、このスピーチで「点をつなぐ」ということを語っている。ただ、人生における点をつなぐ作業は、計画してできるものではなく、現在から過去をふりかえったときに点がつながっていることがわかるのだという意味のことをジョブズは語っている。
 

 わたしは、勝手にこんな風に連想する。つまり、無意識の領域まで含めて、巨大なシステムは、私たちをのみこもうとするけれど、私たちは不可避的に逸脱する。不可避的に逸脱することが、じつは点をつなぐことになるのだ、と。

 だから、啄木の歌は、不可避的にシステムから逸脱しないでは生きていけない人の心をとらえたということになるのではないか。

 こんなふうに、読むものの連想をひろげてくれる鑑賞が随所に示されている本である。

 

2012年2月 8日 (水)

ドキュバース

 ドキュバースとは、テッド・ネルソンによる造語で、すべての文書(ドキュメント)の宇宙(ユニバース)という意味だ。

 つまり、世界の全文書がデジタル化されて、たがいにリンクした状態のことを指している。

 すべての人が、水道をひねれば水が出るように、すべてのあらゆる情報を引き出すことができる。ネルソンは、ザナドゥ計画と呼んでいたような記憶がある。もちろん、彼の理想を示している。個々の情報を引き出すだけではなく、リンクした関連性をも引き出すことができるのだ。リンクした情報は、思考を支援する装置となる。

 しかし、どちらかというと私は悲観的だ。P・K・ディックが未来都市のかたわらに、つねにくずれる砂のような世界をイメージしたように、エレクトロニクスで構築された世界はあっけなく崩壊してしまう。

 

 闇市で雑書をさがしもとめる。そんな未来の方がわたしにとってはリアルである。

2012年2月 6日 (月)

文献探索についての重要事項!

 疲れて帰宅して、何となくいくつか愛読ブログを見ていると、《神保町系オタオタ日記》さんが、文献検索について、たいへん重要なことを指摘していることに気がついた。
 2月6日の「国会図書館の「デジタル化資料(貴重書等)」のお得な使い方」という記事で、たいへん重要なことが書かれているので、引用させていただく。

国会図書館のホームページの「電子図書館」の「デジタル化資料(貴重書等)」で「森茉莉」を検索(「館内限定公開資料を含める」にチェック)すると、全集未収録エッセイがザクザク見つかる。ついでに、「平井金三」も検索すると、精神学院の『心の友』という雑誌に明治42年1月から11月まで「心象研究」を連載していたことがわかる。この精神学院というのは、『難病患者の福音』(精神学院、明治44年7月8版)によると、「元精神学会長桑原俊郎の後を承けて新に立て」たもののようだ。

(参考)国会図書館のデジタル化資料の検索により従来の個人書誌の漏れを補う雑誌文献が随分見つかることについては、森洋介「雑誌記事索引の遡及擴張は成るか デジタル化事業に潜む副産物の功用」『文献継承』19号、2011年10月にも書かれている。

 一読して、これは、たいへん重要な指摘だと思った。そこで、高村智恵子の主治医である斎藤玉男の名前を入れて検索してみた。そうしたら、知らなかった啓蒙書がひっかかてくる。そればかりでなく、『脳』という雑誌に斎藤が発表した文献一覧が出てくる。

 これは、引くものの関心に応じていろいろ使えるのではないか。

 みなさん、ぜひためしてみてください。

2012年2月 5日 (日)

『風俗壊乱』反響(その18)

 一つ、昨年のものを見落としていた。

 『日本経済新聞』2011年12月25日、「2011回顧 私の3册」で、井上章一氏が、『風俗壊乱』をあげてくれている。

 記事は、こちら

顔に見えますか

 とうらいもの。

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◇「みすず 読書アンケート特集」をよむ。『風俗壊乱』を誰かあげていないか、調べたのだが残念ながらなかった。 読後よい感じはない。知的なもののいやな感じがしこたま充満している。「総員、システムから退避せよ!」と、ホイッスルを吹きたい感じ。自分が関わりがない世界への嫉妬だといわれてもよいが。

◇『前衛の遺伝子』に引用してあったので、久しぶりに、ダニエル・ゲランの『現代のアナキズム』(1967年。三一新書、江口幹訳)を取り出した。
 しおりがはさまっているのは、次のような箇所。

 そして、プルードンは、比較的明確に、自治コミューンについて定義を下している。それは本質的に《至上の存在》である。その資格でコミューンが持っている権利は、《自分自身を統治し、自らを管理し、税を自分に課し、自らの所有物と所得とを処理し、青少年のために学校をつくり、先生を任命する》等々である。《これがコミューンをなすものである。というのも、ここに共同の生活、政治的な生活をなすものがあるからである・・・・・・。コミューンはすべての拘束を退ける。コミューンは自分自身の中にしか制約を認めない。外からの一切の強制は相容れぬものであり、死すべきものである》。

 共同体と個人のアポリア。

◇兵庫県立の「解剖と変容 プルニー&ゼマーンコヴァー展」。ゆかりの者によると、ドキュメンタリ-『天空の赤』がよいそうである。

ほぼ90分。10:20/12:20/14:20/16:20(~17:55)/*18:20(~19:55)*金・土曜のみ。

2012年2月 4日 (土)

『風俗壊乱』反響(その17)

 昨年の秋のことだが、国際啄木学会2011年度盛岡大会のパネル・ディスカッション「新しき明日、新しき啄木」で『風俗壊乱』についての言及があったようだ。

 ブログ《啄木の息》にその要約が出ている。おそらく、研究年報で詳しい内容が明らかになるものと思われる。
              

2012年2月 2日 (木)

復元啄木新歌集

 おもしろい本が出た。近藤典彦編『復元啄木新歌集』(桜出版、1050円、文庫版)。

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 表現の生成研究のお手本のような仕事。思いつく人はいるかもしれないが、こうして、本のかたちにするのはたいへんだと思う。またこうした仕事は、多くの人に啄木について、新たに考えるヒントを提供してくれる。
 

 内容は、土岐哀果が編集した啄木没後の歌集『悲しき玩具』を、もとになった歌稿ノート「「一握の砂以後」(四十三年十一月末より)」の構成を尊重して復元したものと、明治四十三年四月にに啄木が編集して春陽堂に持ち込んだが出版されなかった幻の歌集『仕事の後』を歌稿ノート等から再現してみせたものからなる。

 殊に後者は興味深く、ざっと読んだ感じでは、『スバル』派の新歌人登場!、というような印象である。これをそばに置くと、『一握の砂』の個性がさらにきわだって見えてくる。

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