『風俗壊乱』反響(その21)
『昭和文学研究』第64集(2012年3月、昭和文学会)の「研究動向 検閲」(時野谷ゆり執筆)に次のような記述がある。
ジェイ・ルービン『風俗壊乱―明治国家と文芸の検閲』(今井泰子他訳、世織書房 11・4)は、大逆事件前後を軸に、江戸期から戦中までを射程とし、内務省検閲・情報局検閲の機能と実態、文学者と新聞・雑誌メディアの検閲への対応を検証した。
『昭和文学研究』第64集(2012年3月、昭和文学会)の「研究動向 検閲」(時野谷ゆり執筆)に次のような記述がある。
ジェイ・ルービン『風俗壊乱―明治国家と文芸の検閲』(今井泰子他訳、世織書房 11・4)は、大逆事件前後を軸に、江戸期から戦中までを射程とし、内務省検閲・情報局検閲の機能と実態、文学者と新聞・雑誌メディアの検閲への対応を検証した。
翻訳者としてのみみずく先生には、スタイナーの『言語と沈黙』や『脱領域の知性』でずいぶんお世話になった。
みみずく先生の文章についてはよく知らなかった。「〇〇とその時代」なんて時代遅れだという趣旨のことを発言していて、あきらかに江藤淳へのあてこすりだった。江藤淳の熱烈な読者だったので、みみずく先生を敬遠することになった。
もうずいぶん前、新刊書店が店先に古書も出していて、日ごとに、150円、300円、500円と値段が変わり本も変わっていく。ある日、500円の日だったと思うが、太いゴムバンドをかけられた『風狂虎の巻』とみみずく本2冊を見つけたが、買わなかった。いまおもうと、もったいないことをした。
ちくま文庫版『みみずく偏書記』(初刊は1983年)を読んでいて、いまにひびいている部分を見つけることができる。「学際のすすめ」というエッセイには、次のようなことが書いてある。
わたしが或る大学で英文学を勉強しはじめたとき、いちばん当惑させられたのは、関連学との方法論上の脈絡を全く無視した研究の態度であり、その当然の帰結として、個々バラバラのテクストを、ただ〈読む〉ことの連続であったことだった。文学と語学の関連、読む場合の方法の問題、このふたつが完全に抜けているとき、これは漢学の素読よりも、数等おちるものになっても仕方がない。素読は、ひとつには四書五経を中心とする古典遺産の系統的精選を基礎にしていたから、個々バラバラのテクストを読むこととは異なった体系性をもっており、さらに儒教の〈礼〉は諸学の全体を統合する形而上学的理念であるから、素読には立派な関連学的配慮に立つ体系性があった。これに訓詁注釈が加われば、読む場合の方法、それこそ文学理論が加わることになる。
「訓詁注釈」は「文学理論」の問題なんです! まさにそのとおりだ。
仕事終わりにいちばん近い本屋で、由良君美『みみずく偏書記』を購入。
「主要著作および訳書一覧」がついていて、つぎのような記述を見つける。
『椿説泰西浪曼派文学談義』(増補版)青土社、一九八三年(二〇一二年に平凡社ライブラリーより再版予定)
中公文庫版の『谷崎潤一郎=渡辺千萬子 往復書簡集』(2006年1月、初刊は2001年2月)を見ていると、昭和35年7月8日の千萬子の書簡に次のようなことが記されている。
昨夜はねられないのをいゝことにしてクロソウスキーの「ロベルトは今夜」をよみあかしました。形式が伯父様の「鍵」と同じだと云ふので週刊誌などがやかましくいってましたが中味はまるで違ってゐました。宗教が大きな部分を占め、神学論のやうな感がありますので余り理解できませんでした。
この「週刊誌」などはもう調べている人がいるのだろうか。
わたしは、ふたつの小説は似ているように思う。小説を壊すというモチーフを内包している点で。
森鷗外の小説の一部にも、小説でありながら、小説を壊すというモチーフが感じられることがあるが、「鍵」は、さらに巧緻にそのことをやってのけているように思う。
乗り降りする駅が駅舎の建て替え中で、歩道橋が撤去され、駅を通ってしか南北の駅前がつながれていない。駅のチケット販売機では無料の通行券が発券され、それで改札を通過することができるようになっている。
いつもおりる側のカフェが満席で、ふと思いついて、この通行券を使って、いつもはおりない側の出口に出た。喫茶店が一軒あったので、思いついて向かったのだが、あいにく休み。
どうしようかと思いながら少し歩くと、カウンター10席程度の喫茶店がある。木のカウンターと椅子にひかれて入店してみた。奥は常連さんがいるようなので、出口近くの席にすわる。
ブレンドホットは、ちょっと期待したのだがおいしかった。30分ほどいるのに最適の店だ。
このように、毎日かよう街でも、知らないところはたくさんある。足下の未踏である。
ふだんは音楽はまったく聴かない。けれど、よっぽど疲れているのか、いろいろ聞こうという気持ちがある。
アバの次は、グールド。
その次は、ボサノヴァ名曲集。
それから、シルヴィー・ヴァルタン。この人はちょっと年とってからがいい。
たとえば、Des heures de désir。
ついでに、レオ・フェレの『悪の華』。
難聴になったことがあるので、イアホンは禁物。
来週は、よいスピーカーを買いに行こう。
『国際啄木学会研究年報』15号(2012年3月)に、ジェイ・ルービン著『風俗壊乱 明治国家と文芸の検閲』(2011年4月、世織書房)に関連するものがいくつか掲載された。
まず、吉田直美氏の書評。
何より、この本を読みながら魅了されたのは、ジェイ、ルービンその人の日本近代文学に対する読みの深さと的確さである。有名な文学者達はもちろんのこと、私たち日本人がもうほとんど手にすることもなくなっている作家でさえ、一人一人の細かな点についても、作者の生い立ちなどからも立体的に論じている。その記述によって、近代日本の文学が固定された評価を脱ぎ捨て、作品あるいは作家の一人一人が新しい価値を持って立ち現れてくるおもしろさは格別であった。
味読するという感触が翻訳でも伝えることができたとすれば、訳者の一人として大きな喜びである。
もう一つは、パネルディスカッションでの発言である。じつは、このパネルディスカッションでは、『風俗壊乱』を一つの論点として取り上げていただいたのだが、わたしは、勤務の都合で参加できなかった。パネラーの方々がそれぞれ、問題を提起している。
まず池田功氏。
ルービンの本に、啄木が「時代閉塞の現状」を生前公表しなかったのは検閲を恐れたためではないとされている。なぜならオーソリティについては魚住ほど遠慮のないものではなかったし、死後の大正二年に土岐善麿の努力により『啄木遺稿』の中で公表されているからである。
私は「時代閉塞の現状」は検閲を恐れて公表しなかったのであると思い込んでいたので、びっくりした。しかし、啄木が公表しようとしたと考えられる『朝日新聞』と、死後の二年後に刊行された本とでは、全く発行部数が異なりまた読者層も異なっている。オーソリティの点で魚住の方が遠慮のないものであったとしても、「時代閉塞の現状」の国家を敵として捉える過激さはやはり大変なものであり、検閲を意識して発表しなかったと考えた方が良いのではないかと思っている。
この論点は重要である。以前から、わたしは、「時代閉塞の現状」には、国家を敵とすることができないことに発するナショナリスティックな焦慮を隠しているではないかと思っている。竹内好が指摘したナショナリズムの分水嶺問題にちょうど適応すると考えているからだ。また、忠誠と反逆の円環構造を指摘した丸山真男のことも念頭にある。明治政府の正当性と、日本という近代国家の正当性は区別できるのではないか。平岡敏夫氏の佐幕派文学論は、その論点に目をつけたものだと思う。明治政府は、個人とともに、あり得べき共同性を破壊したともいえるのではないか。啄木は、悲憤慷慨の志士の文体を模しながら、検閲にひっかかることはないという見通しをもっていたとも言えるのではないか。
池田氏はもう一つ、近藤典彦氏の指摘に示唆をえて、啄木の小説「道」(明治43年4月、「新小説」)が検閲されており、伏せ字を含むことの意味を再考すべきだ問題提起している。
西連寺成子氏は、「新小説」の検閲にふれて、次のように述べている。
『新小説』は明治四二年一〇月、アンドレーエフ作「深淵」の翻訳によって発禁処分を受ける。それ以前の号には伏字はほとんど見当たらなかったが、これを機に『新小説』誌上には伏字がかなり目立つようになった。発禁処分は雑誌発行側にとって痛手である。出版社は発禁処分を恐れて危ういと思われる箇所についての内部規制を強めた結果、「道」のように伏字が施された小説が掲載されることが多くなった。
西連寺氏は、「道」の伏字には、編集者が付したものと、啄木が付したものの二種があって、後者は、「主に女性のセクシャリティをめぐる事柄」にかかわると指摘している。政治性と性的要素がともに検閲の対象となることは、現象としては確認されているが、そのことの本質を言いあてるのはなかなかむずかしい問題をはらんでいると思う。論文化されるということなので、追究を期待したい。
最後に、田口道昭氏。田口氏は、「「時代閉塞の現状」ははたして検閲を考慮しながら、天皇制に言及したものだったか」という疑問を呈し、次のように指摘している。
「我々の中最も急進的な人達」が、「盲目的に突進してゐる」のは、「彼等の入れられている箱の最も板の薄い処、若くは空隙(現代社会組織の欠陥)」であるが、明治の「天皇制」ははたして「箱の最も板の薄い処」であったかどうか(評論「時代閉塞の現状には、「日本は其国家組織の根底の堅く、且つ深い点に於て、何れの国にも優つてゐる国である」とある)。また、「空隙(現代社会の欠陥)」というのは、前の形式段落で「其制度の有する欠陥」という言葉が示している内実を示す。即ち、経済界の現状であり、貧民、売春婦、罪人の増加を指している。だからこそ、「我々の中最も急進的な人達~盲目的に突進してゐる」の後に、「今日の小説や詩や歌の殆どすべてが女郎買、淫売買、乃至野合、姦通の記録であるのはけっして偶然ではない」という文章が続くのである。そして、それが盲目的な突進であり、「我々自身の時代に対する組織的考察」が求められるのは、「すべて此等は国法によつて公認、若くは半ば公認されてゐる所」だからである。
今井泰子氏の理解に基づいたルービン氏の読みが「過剰な深読み」の危険があるという田口氏の指摘は認めてもよい。注釈の観点からは、田口氏の理解は正しいと思う。
ただ、田口氏が自覚しているとおり問題は残る。明治末における天皇と国家はいかなる関係にあるのか。また、大逆事件を「所謂今度の事」というような婉曲表現で言い表す国民性と国家はどのような共犯関係(コンプリシットな関係)にあるのか。
また、発言の表層では、国家に親和的でも、反国家的でも、システムに内属させられているという点では等価だという、ポストモダン的な認識の萌芽は啄木になかったのかどうか。そのあたりをぜひ追究してほしいと思う。(木股知史)
◇梅ちゃんの自然な眉は見ていてほっとする。自然なふうに手入れしてあるのかもしれないが。我がヒロイン瀧島里もこんな感じでいきたい。いいかげん5回目を書かないと。
◇仕事の波が寄せてくるので、珍しく音楽を聴いている。『アバ・ゴールド』を繰り返し聞いている。アグネタの高音に張りのある声が目立つが、繰り返し聞いていると、アニフリードの低めの声も魅力があることに気がつく。Dancing Queenは別格で、Take a Chance on Meがいちばんかな。
asahi.comに次のような京都府立図書館に関する記事(2012年4月19日)が載っていた。「おでかけポケット」という企画記事である。
100年を超える歴史がある府立図書館(左京区岡崎成勝寺町)。明治時代に設計された洋館の面影を残す建物の内部には、110万冊の蔵書と機械化された書庫がある。その舞台裏を案内してもらった。
「竹久夢二が館に寄贈してくれた本もあるんですよ」。大正時代の代表的な画家で詩人だ。総務課の辰巳裕佳主任がパソコンで検索し、出てきた紙のバーコードを機械に読み取らせる。2、3分後、通風口のような機械から出てきたトレーの上に、1冊の薄い本が載っている。
1912年に刊行された竹久夢二著の「桜さく国 白風の巻」だ。ページを開くと確かに「寄贈 竹久夢二」という文字があった。
なぜ、京都府立図書館に竹久夢二の寄贈本があるのか。1912年11月に、府立図書館の前身、当時の京都図書館で「第一回夢二作品展覧会」が開催されている。
『視る 京都国立近代美術館ニュース457号』(2011年11-12月号、2012年3月発行)に掲載された、寺口淳治氏の「京都からの夢二」には、興味深い一枚の写真が掲載されている。
夢二の展覧会を手伝いに来ていた恩地孝四郎と田中恭吉が夢二と一緒に写っている。夢二は背広だが、恩地と田中は詰襟の学生服だ 。きっと、秋の和歌山近美の恭吉展でこの写真も紹介されるだろう。
寺口氏は夢二と、彼を慕う若い画家たちの関係について次のように記している。大正後期の夢二は、「大正初期にできあがった自らのイメージ」から逃れようとしていたという。
それは、めまぐるしい時代の変転に適応しようとしたことを示すだろうし、自身の資質に沿ったあらたな境地に向かおうとする自然な態度でもあっただろう。そのような時に夢二は、夢二を慕い、夢二を模した若き仲間の創造から大きなヒントを得ていた。
写真に写っている欄干に掲げられた絵は、クリムト風でも、フォーゲラー風でもあるように見える。
〔付記〕この写真は、「竹久夢二伊香保記念館提供」とあって、有料かもしれないので、転写は控えます。唐船屋さんのHPに図書館の写真が出ていますが、右の階段の中央に、夢二、恩地、田中の順で立っています。大勢で写った室内の集合写真は、夢二、恩地、田中の図録で見かけますが、この写真は、見たことがありません。
別冊太陽の新号が没後100年の石川啄木の特集を組んでいる。
25日過ぎには店頭に並ぶのでは。
短歌の鑑賞を書いた。老舗の雑誌の玄関口をまかされることなどめったにないので、普通の人々に啄木の歌の魅力が伝わるように工夫した。とんがりすぎず、ありきたりにならないように注意をはらいながら。
タイトルは「人生という小宇宙」。
個別性と普遍性が融合した啄木の歌の魅力をあらわしたつもり。
写真との組合せは、煙突の写真に注文をつけたほかは、編集担当さんにまかせた。
わたしのいちばんすきな歌は、じつは『悲しき玩具』の一首だ。
ブログ《啄木の息》さんによると、本年1月5日の『毎日新聞』に、亡くなった吉本隆明が談話を寄せているそうだ。引用させてももらうと、吉本は、次のように語っている。
こうした生活の中の細々した感情や社会の見方を歌った作品は、ほとんどが一級品です。歌人の中には異論もあるでしょうが、「詩人」という概念を包括的な意味で用いるなら、間違いなく第一級の詩人といえます。
日常の中の「細々とした感情や社会の見方」のなかにある普遍性を言いあてている、自然な呼吸のような歌。
システムがどんなに高度化して、わたしたちを包摂するようになっても、生活の中の自然はゼロにはならない。
啄木の歌は、そうあってほしいと思う、祈りのような感情を呼び起こす。
過日、いつもの走り買いで、某地下街の古書店で、出帆社版(1975年11月)のアルフォンス・アレー著、山田稔訳『悪戯の愉しみ』を見つけた。ワンコインだった。
《daily-sumus》さんがすでに「悪戯の愉しみ」で、福武文庫版その他を紹介しているので、いろんな事情についてはそちらをごらんいただきたい。
久里洋二の装幀と挿絵である。
推測だが、久里が起用されたのは、どこかで、星新一と真鍋博のコンビが意識されていたのではないだろうか。女の足を腹をさいて腸で温めてやる男など、行きすぎた感じを、久里の挿絵はやわらげている。
帯の澁澤龍彦の「短刀の閃き」という文章を引いておこう。
ベル・エポックと呼ばれる泰平ムードの時代に、アルフォンス・アレーはその短刀の閃きのようなユーモアによって、満ち足りたブルジョワどもの心胆を寒からしめた。「黒いユーモア」という言葉は、まさに彼のために作られた言葉のようだ。私は久しくアレーの作品を愛してきたが、このたび、その抱腹絶倒の短篇が日本語で読めるようになるのは喜ばしい。
さて、近所のコンビニのリニューアルは、やはり、店長交代であった。なじんだパートの人はひとりもおらず、レジで必ず、「ポイントカードはすぐおつくりできますが」とマニュアルどおりの対応をされるようになった。おそらく、ずっと永遠に聞かれるような気がする。
旧店長はそこそこ年輩で、繁盛店だったので、余裕のある引退だと推測できるのだが、やはりさびしい。パートさんたちは、新しい働き口を見つけただろうか。新規開店では、パートさんたちを居抜きにはしないのだ。春の小さな別れだ。
◇吉本隆明の死去は年齢から予想されたことであったが、なんだか時がたつにつれてこたえてくる。宮台真司は、吉本の限界として、ポストモダン思想を理解しなかったことをあげている。でも、若干これは不正確ではないか。なにより、共同幻想という概念は、個をシステムに転倒して組み込むという点では、ポストモダン的識知の先駆けであるとも言えるし、詩史における〈修辞的現在〉、小説批評における〈空虚という主題〉という考え方は、ポストモダン的認識を意識したものだろう。晩年の〈存在倫理〉という考えは、主体をシステムに内属させるポストモダン的世界への批判として構想されているのではないか。だから、この存在をもし超越的認識とするなら、それは原理主義への硬化を意味していて、そういうとりかたは間違っていると思う。
砂粒のような人間が呆然と海辺に佇立している、というのが吉本隆明の死からわたしが受けとるイメージである。もし、その砂粒のような人間が、現在における〈大衆の原像〉だとしたら、とてもアイロニカルなことだけれど、吉本の思想は無効にはなっていないのだ。
あれは、1989年だったか1990年だったか。12月24日、仕事帰りに駅を通りかかると、駅に付設しているホテルにたくさんのカップルが行列をつくっていた。大きな花束の自動販売機もあったかな。
たとえば、ノート。多品種少量生産で驚くほど多くの種類が大文具店にならんでいた。
消費が生産をリードしているように見えた。
一種の解放をそこに感じていた。巨大な市場が、オーソドックスカルチャーもサブカルチャーも取り込んで、カクテルにしてしまうような自由さ。
しかし、間違ったことは明白だ。
何が、足りなかったのか。いま、何がおこりつつあるのか。錯誤の意味を考えなくてはならない。
ブログ《森茉莉街道を行く》の3月31日の「大槻憲二の奥さんが森茉莉と観劇に」という記事を読んでいると、大槻夫人のインタビューが活字になっていることを教えられた。
大槻憲二は、精神分析研究所を設立し、フロイトと交流があり、精神分析受容史に欠かせない人物であるが、じつは、創作版画誌『月映(つくはえ)』の前身、回覧雑誌『密室』の同人でもあり、田中恭吉、藤森静雄、恩地孝四郎等と親しかった。美術から心理学、精神分析に転身した人物である。
記事は、『早稲田大学図書館紀要』48号(2001年3月)に掲載された「動坂界隈の作家たち 大槻岐美さんインタビュー」というもので、大槻家所蔵の資料が早稲田大学図書館に収められたことを契機に掲載された。聞き手は宗像和重氏。
高村光太郎との交流を語っているのは、次のような部分である。
大槻 あの、高村さんの近くでね、智恵子さんが亡くなる前に私おつきあいしてたんですけどね。うちの雑誌ね、ここに「精神分析」(注・昭和八年に東京精神分析学研究所から創刊)合本がありますけど、それを高村さんも読んでて下すって・・・・・・
宗像 あ、やっぱり読んでたんですか、光太郎も。
大槻 ええそうですよ。・・・・・・大槻さんともうちょっと早くつきあっていれば、智恵子をこんなことにしなくても済んだんだ、って。よく私の家にもお寄り下さいましてね。つくづくそう言ってらっしゃいました。
宗像 駒込にアトリエがあったわけですね。光太郎のアトリエが。
大槻 そうなんです。みんな化け物小屋だなんて言ってました。
宗像 アトリエってふつう明るい感じがするはずですよね。
大槻 道の向こう側から光線が入ったんですかね。で、通りの方は閉め切ってありましたからね。本当にそんな感じでした。
宗像 化け物小屋ですか。
大槻 ええ、化け物屋敷だなんて・・・・・・あそこ千駄木小学校っていうのがございまして、あの近くに。生徒たちみんなそう言ってこわがってました。うちの息子もあそこ、千駄木小学校出たんですけれど。
宗像 いつもその光太郎のアトリエの前を通られるわけですね。
大槻 そうです。そうやって学校通ってました。私は、動坂の途中、下から上がっていって右へ折れたところに居りました。高村さんとこうかがいますとね、応接間に、智恵子夫人が臨終の前に描いた切り絵、あれがずっとかけてありましてね、高村さんがいちいち説明して下さいましたよ。
宗像 そうですか。あれはたしか、昭和十四年の十月ですね、智恵子が亡くなったのは。
大槻 ああ、そうですね。
宗像 十四年ですね。そうすると、晩年の智恵子や光太郎のことを、よくご存じなわけですね。
大槻 智恵子夫人のことは、高村光太郎さんにうかがいました。
宗像 そうですか。
大槻 亡くなる二日ぐらい前から、完全に正気に戻ったんですって。
宗像 南品川のゼームズ坂病院というところに入院していたと思うんですけど。
大槻 そして、レモンが食べたいレモンが食べたいと言って、レモンを買って来たら、それを切り絵をなさって、それが済んでから召し上がられたそうですよ。
宗像 そうですか。私たちも写真などで智恵子のつくった切り絵をときどき見ますけれども。
大槻 みごとなもんですよ。
宗像 ええ。
大槻 お膳に鯵なんか出ますとね、その鯵を見て切り絵をつくって、そしてそれが済まないうちは食事なさらない。
宗像 切り絵を完成させてからでないと・・・・・・
大槻 ええ。それから、ご飯にとりかかったんで、時間がかかったらしゅうございますよ。
宗像 そうですか。
大槻 だけどね、智恵子夫人があんな風になったのはね、大槻や大槻のお弟子さん方が研究したんですけどね、智恵子夫人が若いころ、山でころんで、失神するぐらいの怪我、頭を打って、怪我をなさったんですって。きっとそれが原因だろうって、うちではそう申しておりました。
宗像 実家が破産されたり、いろんな原因をいわれることがありますね。
大槻 ええ、そればかりじゃなく・・・・・・とにかく、あれ、皆さんわりあいにのんきに考えてますけどね、頭を、きつく打って、失神するほどの怪我をなさると、後年にとても影響が。
宗像 その話は私は初めてうかがいました。
大槻 それから、出産時にもね。お産が難産だと、思春期になってやっぱり神経症になる事態が多いらしいですよ。大槻がたくさん患者さんを取り扱ってみての経験ですけどね。
宗像 そうですか。大槻先生に早く会っていれば、というさっきのお話は大変印象的です。
大槻 それともうひとつ、これも大槻が言ったことなんですけれど、高村さん、若い時分に、ずいぶんお遊びに(笑)・・・・・・ご存じでしょ、それは。宗像そうですね(笑)。
大槻 あちこち通われて、ねえ。なんかまっとうな生活でもなかったんで、それがお父さん(注・彫刻家高村光雲)との、あまりいい関係にはならなかったということもあるんですよね。それで、智恵子さんが、まるで、聖処女のような人だったらしいんですね。それで高村さんが、あんまりたてまつっちゃった。あれが悪かった、もう少し人間並みにあつかえば、あんなにひどくならないでも済んだんだ、って、うちでそう言ってましたけどね。
宗像 たしかに、「智恵子に会って自分の存在が救われた」という言い方をよくしていますね。
大槻 ええ。高村さんて方は、いい方なんですけどねえ、ほんとに。拝見したところもね。私いつもおそばにいてお話うかがったりもしましたけどね。高村さん自身が、やっぱりすこし。
宗像 芸術家ですからね。そんな側面もあるでしょうけれども。
長井 (壁のレリーフを指さし)高村さんに描いていただいたフロイトのレリーフが。
宗像 ああ、これが高村光太郎がつくったレリーフですか。
大槻 そうです。
宗像 高村さんと交際をはじめられるきっかけは?
大槻 どこか会合で会って、ああ、近くに住んでる、っていうんで、往き来するようになったんじゃないでしょうかねえ。
宗像 それで、こういうレリーフも、つくっていただくようなことになったわけですね。
大槻 あ、そうですね。その、つくり主が、岩倉公爵(注・岩倉具栄)です。岩倉公爵の家庭のね、顧問みたいなことをしておりましたもんですから。その子供さんの成長を見たり、英語の教師、大槻が教えたり。あの方(注・岩倉具栄の長男具忠)、イタリーの公使館につとめてらしたんですよ。
宗像 それは、知りませんでした。
大槻 ええ、一番上の坊ちゃんね。その方を見たり。それで、何か肩入れして下すって。
宗像 光太郎の作品というと、大変貴重なレリーフですね。
大槻 そうみたいですね。
宗像 智恵子が亡くなられたあとで、「智恵子抄」などもお読みになられましたか。
大槻 ・・・・・・ちょっとただごとじゃないような感じも受けますけどね。・・・・・・高村さんが、買い物籠の中に大根だのネギだの入れてね。買い物をして。気の毒に思いましたよ。
宗像 なるほど。芸術家らしく外側のことなんかは構わないような人でしたか。
大槻 うん。正直な方なんですね。私もこの歳になってそれがだんだんわかってきたんです。あのときは、すこし変だなと(笑)思ってたんですよ、若い時はね。ですけど考えてみますと、正直な性格の方だと思いますよ。
宗像 でもああいう夫婦のあり方っていうのは、なかなかないですよね。
大槻 うーん、両方変わってないと(笑)ないでしょうね。まあ、ずけずけ物を申しまして相すみません。
伝聞もまじっている可能性があるが、直接高村光太郎と交際があった人物の証言として興味深い。
◇木田元『木田元の最終講義 反哲学としての哲学』(角川ソフィア文庫版、平成20年5月)に収められている、最終講演「哲学と文学 エルンスト・マッハをめぐって」は、マッハの位置づけをわかりやすく語っている。
近くのコンビニがリニューアルのため一時的に閉店している。好適地にあるので、内装を変えるのだと思っていたが、改装中のウィンドーにパート新規募集の貼り紙がでている。もしかしたら、経営者が変わるのだろうか。その店は、ここ10年くらいパートがずっと同じ人たちで、言葉を交わすこともないが、なじんでいたので、どうなるか気になる。
店長交代なら、十分余裕ができて年もとってきたので他の人に権利を譲るということなのだろう。再開店の日に事情がわかるだろう。
◇仕事の前に、行きつけの書店で、諸雑誌の吉本追悼文をよむ。『図書新聞』3058号の特集「さらば! 吉本隆明」を購入。1面の橋爪大三郎の『共同幻想論』の要約はきわめて正確である。
◇5月からこのブログにも広告が入るようだ。停止するかどうかよく考えるつもり。